修明学園 高砂教室のある、高砂(たかさご)の歴史を、みなさんご存知でしょうか。隣町の葛飾区柴又は映画『男はつらいよ』の舞台として全国区の知名度を誇りますが、高砂にも実は調べてみると面白い歴史があるのです。埼玉県羽生市を水源に発し、東京湾へと注ぐ一級河川「中川」に接するこの地域は、「水」との縁がとても深い場所。社会科の勉強も兼ねて、一緒にこの土地の歴史を探ってみましょう。
現在の「高砂」は、昔は「高砂」という地名ではなかった!?
葛飾区高砂は、かつては「曲金(まがりかね)」と呼ばれる地域でした。その起源は定かではありませんが、応永5(1397)年、室町時代の文献にもその名が残されているということからも、相当古い地名なのではないかと言われています。

明治42(1909)年測図の地図には、まだ「曲金」の地名が残されています(出典:今昔マップ)。
ただし地元の人からも「曲金」という字が読みにくい、語調がわるいと言われていたようで、昭和7(1932)年に市郡併合して葛飾区が誕生した際に、当時の小字名(村より小さい単位の地名)の中からもっとも縁起のよいとされた「高砂」が地名に選ばれました。
ちなみに現在の京成高砂駅は、地名に先立って大正2(1913)年に「曲金駅」から「高砂駅」に改称されています。
京成高砂駅の現在の様子です。
水魔に悩まされ続けてきた葛飾区の人々
高砂について語る上で、「水害」の歴史を抜きにすることはできません。中川や江戸川、荒川など、大きな河川がより集まる葛飾区は、昔から水害の多い地域でした。洪水によって川が氾濫し、堤防が決壊し、流れ込んだ水が人や建物を押し流しました。そのため明治時代以降にもいくつかの大きな治水工事がなされています。
有名なところでは、荒川放水路の工事。「荒川」という名前の通り「荒ぶる川」として、昔から大雨が降ると洪水が絶えなかった荒川。明治時代までの荒川は隅田川を経由して東京湾に注いでいましたが、水を調整して洪水を防ぐために放水路を造る計画が立ちました。明治44(1911)年に工事が始まり、昭和5(1930)年に完成。用地買収によって1300世帯の住民が移転を余儀なくされるなど犠牲も多い工事となりました。

荒川放水路で遊ぶ子どもたち(昭和29年 出典:足立区立郷土博物館 収蔵資料データベース)。
荒川放水路の完成によって計画通り放水路より南の地域は洪水の被害より解放されることになりましたが、その北側にあたる葛飾区では河川に囲まれることで、引き続き水害に悩まされることになりました。
葛飾区で起きた水害として今も語り継がれるのが、昭和22(1947)年に発生したカスリーン台風です。全国でも1077人の死亡者を出したこの台風。葛飾区では20日に中川の堤防が壊れ、高砂も含む区域全体が水浸しとなりました。高砂の北に接する新宿(にいじゅく)付近では水の深さが3メートル以上にもなったそうです。

この写真は、昭和22年、カスリーン台風の豪雨で増水した中川です(出典:足立区立郷土博物館 収蔵資料データベース)。
これをきっかけに、高砂の接する中川でも中川放水路(現・新中川)の工事が計画されました。高砂の辺りでまっすぐ南に伸びて、旧江戸川に合流するのが、昭和38(1963)年に完成した「新中川」となります。
高砂橋から見た「新中川」(写真左)と「中川」(写真右)の分岐点。
新中川の付け根部分には中川放水路完成を記念した「新中川通水記念公園」があります。
中川流域に残る「水神信仰」をたどる
このように高砂の辺りは昔から水害の多い地域でしたが、そのため水に由縁のある史跡や、言い伝えも多く残っています。例えば、高砂6丁目の青龍神社には「けなし池」という周囲150メートルほどの池がありますが、ここは昔中川が決壊して辺り一面が水浸しになった時にできた池だと言われています。
小さい境内ながらも、神秘的な雰囲気の漂う青龍神社の様子。
青龍神社の横にある「けなし池」。文献によっては「けなし沼」とも呼ばれています。
白蛇が住むと言い伝えられるこの池には雨乞いの伝承が残されており、かつて日照りが続いた際にけなし池に祈祷を行ったところ、バケツをひっくり返したような大雨が降ってきたそうです。「けなし池」の名の由来も、一説には「毛=毛渇(けかつ・けけち)」と東北地方の言葉で「飢饉」という意味を持つことから、「飢饉を防ぐ池」という祈りを込めて名付けられたとも言われています。
雨乞いは全国でもポピュラーな風習ではありますが、高砂2丁目の天祖神社にも「板絵着色雨乞図絵馬学」(葛飾区指定有形民俗文化財)という、天保10(1828)年に奉納された雨乞いの絵馬が伝わっており、この地域の「水」に対する縁の深さを感じることができます。
高砂天祖神社。曲金(現・高砂)のみならず、新宿や細田など周辺の村々の総鎮守として崇められたそうだ)
「水との縁」はこの地域に伝わる「水神(すいじん)信仰」からもうかがうことができます。
「水神」と一口に言えど、その形態は一様ではありません。第一に、水稲栽培を主な生業とし、水の便を仰ぐことの多かった日本では、水の神は穀物の豊穣をもたらす神として崇められていました。また利根川や利根川水系の流域では水神信仰が盛んだったようで、水害が多く、また肥料や野菜の運搬に川が重要であったことから、「舟運の安全」として、「水害除けの守護神」としての信仰の対象となるケースが多かったようです。実際に、高砂が接する中川沿いの街にもさまざまな水神信仰の記録や痕跡が残っています。
新宿日枝神社の水神様。
奥戸7丁目にある水神社。
細田神社内の水神宮神社。
高砂の水神信仰の例を見ていきましょう。高砂の街中にも、水神様を祀る社や祠をいくつか見かけることができます。
この写真は、高砂1丁目にある諏訪野八幡神社内の水神宮です。
こちらは、高砂6丁目の都道467号沿いにある祠。「水神」という文字が微かに確認できます。
特筆すべきは先に紹介した高砂天祖神社です。天祖神社では、昭和18(1943)年に戦時体制の強化に伴い神社の統合が行われました。合祀(神社に複数の神様を祀ること)された神社の中には、水神信仰にゆかりのある社も多くあります。
天祖神社内の水神4社。左から日枝神社、青龍大権現、厳嶋神社、水神宮。
そのうちのひとつ、八雲神社では、毎年6月15日に天神様のお祭りが行われています。かつては現在の高砂橋のあたりから神輿を担いで中川に入る威勢のいいお祭りだったようで、土手の上には提灯が灯され、周りの村から神輿を見学に人がやってくるほどの盛況がありました。この祭りの際に、河童にあげるのだといって、水神様にも初物のキュウリをお供えしたそうです。
昭和7(1932)年に高砂橋ができてからは神輿が川に入ることはなくなったそうですが、橋ができる前は「曲金の渡し」という渡船場(渡し船が出る場所)があったということなので、「舟運の安全」が不要になったことが、神輿が川に入らなくなったことにつながったものと考えてみても面白いかもしれません。
先ほどご紹介した青龍神社もまた、水神信仰を持つ神社とされています。かつて、11月3日の祭りの日には農家が鶏を持ち寄り、醤油味の鍋を作り、境内にむしろを敷いて赤飯の握り飯と鶏鍋を食べたそうです。
先人たちの水への畏敬の念を想いながら高砂を歩く
『増補 葛飾区史』によると、葛飾区の水害は江戸時代以降のものだけでも、入間川水系・利根川水系によるもので百十数回にもおよぶそうです。水は人々を苦しめた一方、日照りの時は雨乞いで水を求めましたし、洪水によって土砂に含まれる養分が田んぼにもたらされるといった恩恵もありました。
そんな風に、水とともに生きた高砂の人々の暮らしや歴史を想像しながらこの街を歩いてみると、また新しい発見があるかもしれません。
高砂に暮らす子どもたちの学びの場
このように、高砂は「水」とつながりをある、独特な歴史を持つ町です。
1986年(昭和61年)に修明は、設立20周年の記念事業として、葛飾区高砂に第2修明ビル完成させ、高砂教室を開設しました。そこから30年以降 、地域に根付くように、地域の子どもたちの学びの場となるように、研鑽を重ねてきました。
お子さんに適した学習をしっかりとサポートする、修明学園高砂教室をよろしくお願いいたします。
<参考文献>
東京都葛飾区 編『増補葛飾区史 上中下巻』東京都葛飾区
葛飾区郷土と天文の博物館 編『葛飾区の民俗 1 (葛飾区民俗史料調査報告書訂正復刻版) 祭りと行事』葛飾区郷土と天文の博物館
葛飾区児童館職員研究会図書グループ 編『葛飾のむかし話』葛飾区児童部児童課
葛飾区総務部総務課 編『子ども葛飾区史』葛飾区