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江戸の町はここから始まった!? 交通の起点として全国から多くの人が集まった「日本橋」の歴史に迫る

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江戸の町はここから始まった!? 交通の起点として全国から多くの人が集まった「日本橋」の歴史に迫る

修明学園 浅草橋教室の近くにある「日本橋」。実際に訪れたこともある方が多いかと思いますが、実はこの場所が、徳川家康「江戸」という町がつくられる上での大元になった場所であったということをご存知でしたでしょうか? さまざまな意味で江戸や日本の中心地だった日本橋の成り立ちを知ることは、江戸時代について理解する上で、大きな手助けともなるはず。

 

そこで、今回は日本橋の歴史について解説してみたいと思います。日本史を勉強するようなつもりで、ぜひ読んでみてください。


日本橋が「日本の道の真ん中」とされる理由

 

みなさん、「日本の中心」あるいは「日本の真ん中」といえば、どの場所を思い浮かべるでしょうか。例えば兵庫県西脇市は日本の経緯度の中心が交差する場所として「日本のへそ」であることをうたっていますし、そこから遠く離れた群馬県渋川市も、日本の主要四島で最北端の北海道宗谷岬と最南端の鹿児島県佐多岬を円で結んだ中心に位置しているということから「日本のへそ」とされ、昭和59(1984)年からは「日本のまんなか渋川へそ祭り」なんてお祭りも開催されているようです。

 

そんなふうに、「日本の真ん中」と言われる場所は全国に数十箇所もあるそうなのですが、「日本の道の真ん中」といえば、東京都中央区にある日本橋に他なりません。なぜ、日本橋は「日本の道の真ん中」なのか? まずは、日本橋の地名の由来となった橋としての「日本橋」の歴史に迫ってみましょう。

 

 

日本橋の全景。現在の橋は1911年に完成したもの。1999年に重要文化財に指定。

 

豊臣秀吉の小田原征伐によって北条氏が滅亡、その後、秀吉の命によって駿府(現在の静岡県)にいた徳川家康が関東の地に移封(領地を移すこと)され、江戸城に入城したのが天正18(1590)年のこと。秀吉の死後、関ヶ原の戦いに勝利した家康は、慶長8(1603)年に征夷大将軍の宣下(天皇からの命令)を受けて江戸幕府を開きます。同時に、江戸に住むことになる大名・旗本・御家人の家臣や家族、商人や職人など人口急増を受けて、本格的な土地の整備や町づくりが始まりました。

 

もともと、現在の中央区の辺りは「豊島洲崎(としますさき)」と呼ばれる、葦原や干潟が広がる場所でしたが、神田山(現在の神田駿河台)を切り崩して、そこから出た土で日本橋南岸の隅田川沿いの土地を埋め立てました。それが現在の京橋や銀座となります。そして埋め立てをしたことで南北に伸びた江戸をつなぐために、初代の日本橋が架けられました。

 

 

正保年中江戸絵図。嘉永6(1853)年にも模写。正保元(1644)年か2年の江戸の町の様子であると推定されています。(画像:国立公文書館デジタルアーカイブ)

 

ちなみに「日本橋」という地名の由来は何か? 『日本橋トポグラフィ事典』(たる出版)によると、その由来は諸説あるということです。例えば、江戸の仮名草子作者・三浦浄心が書いた『慶長見聞集』では、日本中の人が橋の建設に関わったことから「日本橋」という名前がついたと説明されています。その他、日本橋が架けられる以前から、木を2本架けただけの「二本橋」があり、その後大きい橋が架けられたことで「日本橋」となった、という説も紹介されています。

 

 

首都高速道に蓋をするような形で覆われている日本橋川。

 

慶長9(1604)年には東海道、中仙道、日光街道、奥州街道、甲州街道の五街道が定められ、その起点となった日本橋は、全国の交通の要として大いに栄えることになりました。これが、日本橋が「日本の道の真ん中」と言える理由です。

 

火事や老朽化で何度も架け替えられている日本橋

 

江戸の仮名草子作家・浅井了意が、当時の日本橋の賑わいぶりを『江戸名所記』の中で次のように描写しています。

 

「橋の長さ百餘町、北みなみにわたされし橋の下には、魚舟槇舟数百艘、こぎつどひて、日毎に市をたつる(中略)されども橋のうへは、貴賤上下のぼる人くだる人、ゆく人歸る人、高のり物人の行通ふ事、螘(あり)の熊野まいりのごとし」

 

 

歌川広重作『東海道五拾三次之内 日本橋』に描かれた、江戸時代の日本橋の様子。(画像:足立区立郷土博物館)

 

 

歌川広重作『新撰江戸名所 日本橋雪晴ノ図』に描かれた日本橋の冬景色。(画像:足立区立郷土博物館)

 

「熊野まいり(熊野詣)」とは、熊野信仰にもとづいて、現在の三重県熊野市にある本宮・新宮・那智の三つの聖地を参拝する慣習のこと。かつて多くの人が参拝したことから、人がぞろぞろ連なって歩くことを「蟻の熊野まいり」と例えたのです。それだけ、多くの人が日本橋を往来したということですね。

 

 

日本橋にある日本国道路元標のレプリカ。日本のさまざまな道路の起点であることを示しています。

 

日本橋は昭和3(1928)年までに、火事や老朽化などで、十数回も掛け替えられたといいます。近代からの歴史をたどると、明治5(1872)年には西洋式の木製の橋が架けられ、明治44(1911)年になると交通量の増大にともない、より頑強な橋を、ということで花崗岩の石造の橋に掛け替えられました。

 

現在、日本橋の上には首都高速道路が走っています。昭和38(1963)年に開通したため、私たちにとってはもはや馴染みのある光景ではありますが、かつての日本橋の面影を蘇らせるべく、高速道路の地下への移設を求める市民運動も1960年代から行われています。

 

実際に、日本橋の高速道路を地下化する計画はあるようで、首都高速道路株式会社「首都高速道路日本橋区間地下化事業」のホームページ(2022年9月21日閲覧)によると、「立体道路制度」なる制度を活用して、新常磐橋の辺りから、江戸橋ジャンクションの区間を地下に埋めるというルートイメージが示されています。

 

 

この事業計画が完了すれば、日本橋は半世紀以上ぶりに青空を取り戻すことになります。(画像:首都高速道路会社 首都高速道路日本橋区間地下化事業パンフレット)

 

江戸の町づくりは日本橋からスタートした

 

地名としての日本橋は、これまでご紹介した「日本橋」に由来するということは言うまでもありませんが、実は中央区に“日本橋”が含まれる地名は多数存在します。ざっと、ここで挙げてみましょう。

 

日本橋石町、日本橋室町、日本橋本町、日本橋小舟町、日本橋小伝馬町、日本橋大伝馬町、日本橋堀留町、日本橋富沢町、日本橋人形町、日本橋小網町、日本橋蛎殻町、日本橋箱崎町、日本橋馬喰町、日本橋横山町、東日本橋、日本橋久松町、日本橋浜町、日本橋中洲、日本橋、日本橋茅場町、日本橋兜町

 

また、現在の八重洲1丁目は、元は日本橋呉服橋1〜3丁目で、昭和29(1954)年に八重洲1〜3丁目に改称、そして昭和48(1973)年に統合され八重洲1丁目となりました。そのため、八重洲も日本橋シリーズ(?)の仲間と言えるでしょう。

 

この中で、ある意味最も歴史と由緒正しいといえる町が「日本橋本町」かもしれません。日本橋本町1〜4丁目は、家康が江戸に入国してから、初めて地割(土地を割り振ること)を行った地域で、江戸随一の繁栄を誇った商業地でした。

 

 

 

製薬会社の本社がいくつも存在することから「薬の街」としても知られる日本橋本町。

 

現在はビジネス街としての趣きが強い日本橋本町ですが、3丁目の宝田恵比寿神社は、商業神として古くから問屋商人の信仰を集め、当時の名残をとどめています。

 

これだけ「日本橋」の付く地名が多いのも、実は上にあげた地名がすべて、かつて存在した「日本橋区」という行政区に含まれていたからです。日本橋区は明治11(1878)年、郡区町村編成法により成立しました。この区名の候補として「北江戸区」という案もあったそうです(京橋地区は「南江戸区」)。日本橋区時代は半世紀以上続きますが、昭和22(1947)年、22区制により「日本橋区」と「京橋区」が合併し、現在の「中央区」となりました。同時に、旧日本橋区内の町名には「日本橋」の冠称がつけられました。

 

日本橋の歴史を知るためのおすすめ観光スポット

 

「日本橋」という壮大な名前に負けず劣らずの歴史を持った橋と、その橋を名前の由来とする町。実際にこの場所に立って、かつて橋を行き交った江戸の人々の姿や喧騒を想像してみると、より江戸という時代に親しみを持てるかもしれませんね。

 

ちなみに日本橋を観光するのであれば、株式会社東京湾クルージングの提供する「神田川クルーズ®️」がおすすめです。日本橋のたもとの日本橋船着場より乗船する乗合クルーズで、日本橋川、神田川、隅田川をぐるりと一周します。クルーズ船から江戸外堀の石垣を見ることができたり、日本橋の裏側に残る関東大震災の火災による焦げ跡を確認できたり、ガイドに案内されながら、日本橋の歴史を川からたどることができます。

 

 

 

神田川クルーズのクルーズ船。当日の運行状況はTwitterで逐一発信されています。

 

また、両国の東京江戸博物館では木製だった時代の日本橋が実物大で復元されているので、こちらもおすすめです。現在、改修工事中のため2025年度(予定)まで休館中ですが、江戸東京博物館の公式サイトでは、パノラマビューで館内の様子を見学することが可能です(2022年9月25日現在)。

 

 

浅草橋の学びの場の中心として

このように、日本橋は日本の交通の要「日本の道の真ん中」として大きく栄えました。

修明学園 浅草橋教室も「日本の道の真ん中」と呼ばれる日本橋のように、地域のお子さんの「学びの場の中心」となれるよう願っています。

 

 

<参考文献>

日本橋トポグラフィ編集委員会 編『日本橋トポグラフィ事典』(たる出版)

角川日本地名大辞典編纂委員会編『角川日本地名大辞典13 東京都』(角川書店)

社内報編集委員会(広報部) 制作・編集『にほんばし界隈』((株)アイアンドエス)

佐藤 洋一,武揚堂編集部 著『あの日の日本橋-地図と写真でたどる 昭和25年から30年代の思い出と出会う(地図物語)』(株式会社武揚堂)