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かつては東京と千葉をつなぐ交通の要衝だった!? 江戸川区「小岩」の歴史を知る

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かつては東京と千葉をつなぐ交通の要衝だった!? 江戸川区「小岩」の歴史を知る

「修明学園 高砂教室」に通われている方は、高砂の隣町でもある「小岩」という地名に馴染みのある方も多いかもしれません。なかには小岩に住んでいる方や、お買い物をしに行ったことのあるという方もいるでしょう。でも「小岩」の由来について知っているかと聞かれたら、多くの人が「NO」と答えるはずです。果たして、なぜ「小岩」なのか? 身近な地域の歴史を調べることは、地理や歴史のいいレッスンにもなります。というわけで、今回は「小岩」の歴史について一緒に調べてみましょう。


「小岩」の由来は「甲和(こうわ)」から?

 

実は「小岩」という地名の由来は、よくわかっていません。一説によると、奈良正倉院に残る下総国戸籍(養老5年、721年)に記載された「甲和里(こうわのさと)」(戸数44戸、人口452人)が、現在の小岩の地域を指すものであるとされており(葛飾区水元小合町であるという説も)、その理由も「こうわ」と「こいわ」の発音が似通っているから。この説によれば、小岩という地名の由来は古く奈良時代までさかのぼることができそうです。

 

また、かつて小岩に隣接する江戸川がかつて「がらめき川」あるいは「がらめきの瀬」と呼ばれており(「がらめき」とは「ガラガラ鳴り響く」の意)、河底に岩盤があったことから、それが地名に関係しているのでは、と推測する説もあります。

 

写真は市川橋から眺めた江戸川です。

 

1931年出版の『文化の小岩』(江戸川新報社出版部)では、かつて小岩の地が江戸川の中にあり、「江の中の小岩(小サキ岩)」が小岩になったという、似たような説をとっています。いずれにせよ、小岩という町は江戸川とは切っても切れない関係ということになりそうです。

 

 

もっとややこしくなっていたかもしれない小岩の地名

 

冒頭で「小岩という地名」という表現をしましたが、厳密には「小岩」という単独の地名は現存しません。おそらく「JR小岩駅」「京成小岩駅」という駅名の印象で「小岩」とひとくくりに考える方が多いのかと思われますが、現在江戸川区で小岩に関連する地名は「北小岩」「西小岩」「東小岩」「南小岩」があり、いずれも東西南北の方位が「小岩」の頭に付いています。

 

 

「既に」という言い方をしたのは、かつては「小岩」という単独の地名が存在したからです。江戸時代においては、現在の小岩各町のあたりには「上小岩村」「中小岩村」「下小岩村」「小岩田村(小岩新田)」と呼ばれる村がありました。明治22(1889)年、これに加えて「伊予田村」が統合し、「小岩村」が誕生します。

 

明治44年測図の地図(「今昔マップ on the web」より作成)を見ると、小岩が上中下に分かれています。

 

そして昭和3(1928)年には「小岩村」が町制施行にともない「小岩町」へと改称。さらに、この「小岩町」の大部分は昭和41(1966)年の住居表示実施により、現在の「北小岩」「西小岩」「東小岩」「南小岩」の4つの小岩へと変わります。ちなみに、新しい地名には複数の案があったようで、一つ目は現在の東西南北案(4ブロック)、2つ目は東西南と上中下案(6ブロック)、3つ目は、東西南・上中・小岩本町案(6ブロック)、4つ目は小岩町を4ブロックに分け、それぞれに「小岩」ではないまったく別の地名をつけるという案です。話し合いの結果、総武線の軌道と、柴又街道で4つのブロックに分け、東西南北の小岩とする案に落ち着いたそうですが、もし別案が採用されていたら、北やら東やら、上やら下やら、なんだかややこしそうな小岩の地名になっていたのかもしれませんね。

 

さて小岩といえば、駅を降り立ったらすぐにお気づきかと思いますが、商店街がとても発達した町です。その数も非常に多く、江戸川区商店街連合会のサイトを参照すると、小岩北支部、小岩南支部、2つのエリアで20を超える商店街が存在していることがわかります。

 

JR小岩駅南口だけで4つの個性豊かな商店街があります。

 

商店街を見れば小岩の歴史も見えてくる、ということで、今回は江戸時代から街道筋の町として栄えた歴史のある、「京成江戸川商栄会」について深掘りしてみたいと思います。

 

商店街から小岩の歴史をひもとく

 

江戸時代、現在の京成江戸川駅(北小岩3丁目)のあたりには「小岩・市川の渡し」と呼ばれる、江戸と房総を結ぶ重要な航路がありました。

 

小岩・市川の渡し跡に立つ案内板。昔はここに橋がなく、船で江戸川を渡っていました。

 

「渡し」というのは船で川の対岸から対岸に人や荷物を運ぶ交通機関のこと。江戸時代、幕府は軍事上の理由から江戸近郊の河川に橋をかけさせませんでした。つまり当時は、川を越えるためには、渡しを利用するほかなかったのです(明治37年に木製の江戸川橋がかけられ、昭和2年に鉄橋へとかけ替えられて現在の市川橋となりました)。

 

なぜ「小岩・市川の渡し」が重要だったかというと、この場所が3つの街道が交わる交通の要衝であったからです。2つは江戸から房総へ至るルートとした利用された佐倉道と元佐倉道(千葉街道)です。佐倉道は参勤交代の道筋として利用されたほか、江戸から成田詣に出かける旅人でもにぎわいました。また、南北に連なる岩槻道は、江戸川を渡って埼玉県岩槻にある慈恩寺までお参りをする参拝者が利用しました。この岩槻道は、また千葉県市川市の行徳で作られた塩を岩槻へ運んだ道であるとも言われています。

 

 

街道が交差する場所には、「右せんじゅ岩附志おんじ道(右・千住岩槻慈恩寺道)」と慈恩寺の方向を示した道標が、今でも残っています。

 

江戸川を渡った人々の旅の目安となった一里塚。いまは交差点の名前として残っています。

 

人通りが激しかったこの場所には番所や関所が置かれ、通過する人や物資が厳しく管理されました。また、人が集まれば当然、その人たちに向けた商売も栄えるということで、宿場町としても繁栄し、街道筋には旅籠(宿屋のこと)を兼ねた小料理や、掛茶屋(通行人にお茶や菓子を提供するお店)が並び、にぎわったと伝えらえています。江戸川区では小松川と並び、もっとも早い段階でひらけた町だったようです。

 

江戸時代、「番所町」と称され栄えたこのエリアは、現在はレトロな雰囲気の漂う地元密着型の商店街となっています。

 

京成江戸川駅前にある商店街のメインロードです。

 

駅前商店街の案内板。

 

大正13年開業の豆腐屋。もとは三河の国がふるさとだったので、元は「三河屋」という名前でした。

 

商店街唯一のお米屋。大正8年開業です。

 

宿場町時代の姿をしのばせる旧跡として、当時小岩・市川の渡し場に建てられていた「常燈明(じょうとうみょう)」という石灯籠が京成江戸川駅近くの宝林寺に残っています(昭和9年に現在の地に移設)。

 

この常燈塔は、成田詣に向かう旅人の安全を祈願し、天保10(1839)年、千住総講中によって建てられました。

 

また、行き交う旅人でにぎわっていた佐倉道と元佐倉道の合流点には角屋旅館という江戸時代から続く老舗の宿があり、数年前まで営業を行っていたそうです。現在、旅館は廃業し、建物も建て替えられているようですが、跡地には番所町の歴史を伝える案内板が立っています。

 

角屋旅館跡地。大正時代、この反対側の角は人力車の溜まり場となっていて、遠く両国の方まで行ったそうです。

 

角屋の脇にある道は、江戸川の河川敷に真っ直ぐ伸びています。ここが渡し場へと続く道だったのです。

 

角屋旅館跡の隣にある「田中畳店」も明治29年開業の老舗。渡し場への道は昼も夜も人通りがあったそうで、「此処ならワラジを売っても生活出来る」と思い、この場所に店を建てたという証言が『北小岩江戸川町会五十周年誌』(東京都江戸川区北小岩江戸川町会,1981)に載っています。番所町のにぎわいぶりを感じることができるエピソードですね。

 

 

かつて、小岩は海の底だった

 

 

小岩を含む江戸川区は、昔は海の底で、江戸川の運んだ土砂で長い時間をかけて陸地が形成されていったそうです。この辺りはどこまでも平坦で、昔は一面田んぼだらけだったという今では信じられないお話。電車で小岩を通過する時に、「ここも昔は海だったんだ」と思いながら車窓の景色を見ると、また面白いかもしれませんね。

 

 

小岩に暮らす子どもたちの学びの場

 

このように、かつては交通の要衝としての歴史を持つ小岩も、現在は落ち着いた生活の場です。

1986年(昭和61年)に修明は、設立20周年の記念事業として、葛飾区に第2修明ビル完成させ、高砂教室を開設しました。そこから30年以降 、高砂、小岩、青戸、柴又といった地域に根付き、地域の子どもたちの学びの場となるように、研鑽を重ねてきました。

お子さんに適した学習をしっかりとサポートする、修明学園高砂教室をよろしくお願いいたします。

 

 

<参考文献>

江戸川区区史編纂室 編『江戸川区区史 一巻~三巻』江戸川区

東京都江戸川区北小岩江戸川町会 編『北小岩江戸川町会五十周年記念誌』東京都江戸川区北小岩江戸川町会

鈴木馨, 内田定夫 著『江戸川区史跡散歩』学生社

江戸川区教育委員会 編著『江戸川区の史跡と名所 第15版新改訂版』江戸川区教育委員会

 

『文化の小岩』江戸川新報社