修明学園 勝どき教室のある「勝どき」。実はこの町がかつて日本の近代化を支えた工場地帯だったことを、みなさんご存知でしたでしょうか? 都内屈指の開発地区として高層ビルの立ち並ぶ現在の勝どきに、当時の面影を探すのは困難かもしれません。しかし地域の歴史を頭の中にインプットした上で町を歩くことは、目に見えないものを見通す想像力、そして観察眼を養うことにもつながります。
それでは、さっそく「勝どき」の歴史を掘り下げてみましょう。
勝鬨橋ができる以前は、渡し船が勝どきの交通を支えていた
「勝どき」という地名の由来は何か。これはその名の通り、築地地区と勝どき地区を結ぶ架橋「勝鬨橋(かちどきばし)」と関係していることは言うまでもないでしょう。


橋長246m・幅員約426mの勝鬨橋は日本初の「双葉跳開橋(橋の左右が蝶の羽のように開く橋のこと)」として1940(昭和15)年に建設されました。
当初は1日に5回、最盛期には1日に7回、20分ずつ開いていたようですが、橋上の交通量の増加などに伴い、1970(昭和45)年からは開閉を停止しています。「跳開」という本来の機能は役目を終えましたが、「国内最大の可動支間(かどうしかん)を有する技術的完成度の高い構造物」といった価値が認められ、2007(平成19)年には、国の重要文化財にも指定されました。
それでは「勝鬨橋」という橋の名前の由来は何か? 元をたどれば、かつて勝鬨橋の架かっていた場所の付近には「勝鬨の渡し」という渡船場が設置されていました。築地・銀座方面との交通需要増加に伴い、1905(明治38)年に開設。その開設資金となったのは、日露戦争の連戦連勝を祝福するために設けられた京橋区祝捷会の寄付金でした。「勝鬨」
、つまり「戦いに勝ったときにあげる鬨(とき)の声」の名前も、日露戦争での勝利にちなんでいます。そして、この「勝鬨の渡し」が勝鬨橋のネーミングへとつながりました。
この写真は「勝鬨の渡し」の近くを運行していた「月島の渡し」(明石町─月島3丁目)のものですが、勝鬨の渡しもこのような風景であったと思われます(写真提供:中央区立京橋図書館)。
勝鬨橋の袂(築地側)に設置されている記念碑。実際の勝鬨の渡しは、現在の勝鬨橋よりさらに約150m下流で運行されていたということです。

「かちどきのわたし」記念碑に隣接する「かちどき橋の資料館」(中央区築地6-20-11 入場無料)では、橋を動かしていた発電設備などを展示しています。
人々が片寄せあって暮らす、職住一体となった工場都市
地名の由来を紐解いたところで、次に「勝どき」という町が、どのような歴史的経緯を持つ場所であるのか、資料をもとに迫ってみたいと思います。まず、下の地図を見てみてください。「明治東京全図」という1876(明治9)年の地図から、現在の佃島・月島・勝どき周辺エリアを拡大したものです。

何か違和感を感じませんか? そう、この地図の中には月島、勝どき、豊海、晴海が存在しません。実はこの辺り一体の土地は、埋め立て工事によって人工的に生まれました。

1896年〜1909年の同じエリアの地図を見てみると、もともとあった石川島や佃島から西側に延長するように、新しい土地ができているのがわかります。
月島の埋め立ては、東京を欧米に引けを取らない都市にしようとする「市区改正」と、東京にも大型船が入港できる港を求めた「品海築港」という都市計画に端を発します。さまざまな議論を経て、1887(明治20)年に「東京湾澪浚(みおさらい)計画」の一環として埋め立てがスタートしました。
1892(明治25)年に1号地(現在の月島1〜4丁目)、1894(明治27)年に2号地(現在の勝どき1〜4丁目)、1896(明治29)年に新佃島(現在の佃1〜3丁目)が完成。そして現在の勝どき5〜6丁目に当たる3号地は、明治末から行われた、隅田川河口改良工事により、1913(大正2)年に完成しました。
町の区割りは現在とは違い、1号地、2号地を貫く通りに沿って、隅田川側から「月島西河岸通」「月島西仲通」「月島通」「月島東仲通」「月島東河岸通」と名付けられました。「勝どき」の町名が付いたのは、1965(昭和40)年に住居表示が実施されてからです。
現在の高層住宅が立ち並ぶ姿から想像できないかもしれませんが、月島一帯は当初は工場地として開発されたのです。広い埋立地が工場の敷地に適しているという理由から、工場地帯として急速に発展してきました。警視庁統計によれば、1911(明治44)年に2608名だった労働者の数は、1916(大正5)年には5396人と2倍にも増えています。

この写真は、月島東仲通十一丁目7番地(現・勝どき4丁目)にあった小幡亜鉛鍍金工場第二工場です(写真提供:中央区立京橋図書館)。
1903(明治36)年に架けられた相生橋によって、深川地区から月島への往来が便利になったことも、工場地としての発展に拍車をかけたとも言われています。全居住者の半数を労働者が占め、ごくごく狭い人工島の中に、工場と、そこで働く労働者たちの住宅が密集する、独特の景観が形成されてきました。

現在の相生橋。ここに橋がかかったことによって、月島の発展は加速したそうです。
工場地帯としての月島(現在の勝どきを含む)の発展は、戦争や震災の影響によって浮き沈みはありながらも、昭和30年代から始まった高度経済成長の頃まで続いたようです。その当時の勝どきはどのような風景だったのでしょうか。2002(平成14)年発行の『中央区の昔を語る(16)』(中央区教育委員会)という本には、1941(昭和16)年生まれの男性による、次のような証言が記録されています。
「昭和二十年代の初めは、今の清澄通りの町並みと言いますと、大きな工場がありました。(中略)今の東日本銀行があるところには長谷川鉄工所、それから私の同級生のおやじがやっていたところとか、かなりの数の鉄工所があって、今のように高い建物はほとんどなかったですね。せめて二階建て、三階建てというのが高い物でした」(『中央区の昔を語る(16)』P.15)

この写真は、清澄通りに面する、現在の東日本銀行の店舗(HNBミニプラザ月島:中央区勝どき2-10-16)です。
また、勝どきの辺りは、石川島にある石川島播磨重工業株式会社(現・株式会社IHI)の下請け工場が多く、一つの企業城下町のような意識で、多くの住民が仲間意識を持ちながら、人情味のあふれる生活を送っていたそうです。

株式会社IHIの発祥地は、勝どきからもほど近い石川島でした(写真提供:中央区立京橋図書館)。この写真は、工場が立ち並ぶ当時の石川島です。
勝どき地区を潤わせた石川島播磨重工業は、ある意味では工業地帯としての月島の象徴的な存在でしたが、1959(昭和34)年に本社が千代田区大手町へと移転。その影響で潰れた工場も多く、勝どきにとっても一つの潮目となりました。以降は、現在と連なるリゾート地、高級住宅地としての大規模な再開発の時代へと移っていきます。
新しいけれど、確かな「歴史」も感じる勝どき
その成立経緯からして、当初から近代な人口都市として発展してきた勝どきですが、町中のところどころに伝統的な香りも漂わせています。
勝鬨に来たらぜひ立ち寄っていただきたいのが、月島第二児童公園(中央区勝どき1-9-7)にある「勝どき・豊海歴史資料展示館」。ここでは勝どき住民の歴史と誇りを感じさせる展示品を鑑賞することができます。
「二号地神輿」は、1935(昭和10)年に作られた、白木作りの大神輿。この地に代々受け継がれてきた神輿であり、三年に一度の住吉神社例祭の時には、盛大に担ぎ出されます。
「山車」。「二号地神輿」と同じ、1935(昭和10)年に奉納。こちらも住吉神社例祭で活躍します。
江戸町火消しの歴史と伝統を引き継ぐ「第一区六番組」の用具である纏(まとい)も展示されています。頭部分に組の標識である陀志(だし)として、「六」をかたどったデザインを施しています。
現在、勝どき4丁目にあるお旅所(祭礼の際に神輿を仮で鎮座させる場所)は、1984(昭和59)年にこの地に移転されるまでは、勝どき2丁目にありました(1901年建立)。境内には樹木が生い茂り、地域の鎮守の杜として住民から愛されていたようです。
面白い話として、勝どき4丁目にある東陽院には、江戸のベストセラー『東海道中膝栗毛』の作者、十返舎一九のお墓があります。なぜ江戸時代に亡くなった一九の墓が、明治以降にできたこの町にあるのか!? 不思議ですが、実は陽院はもともと浅草にあった寺で、関東大震災で全焼してしまったのを機に、「せっかく復興するならお寺のない場所へ」という理由で、勝どきに移転したそうです。その際に一九のお墓も移ってきました。
入り口には碑が立ち、実際の墓石には次のような辞世の句が刻まれています。
この世をば、どりやお暇と
線香の煙と共に
はい 左様なら
かの戯作者らしい、ユーモアにあふれる句ですよね。
勝どきには、シェアサイクルのポートがいくつかあります。歩いても散策できる広さではありますが、電動自転車を使うとより快適に勝どき巡りをすることができます。ぜひ、今回の歴史を踏まえて、勝どきの町を新鮮な目で眺めてみてください。
勝どきに暮らす、勝どきに学ぶ
このように、勝どきとその周辺はユニークな歴史と文化が感じられる土地です。
修明学園の勝どき教室が東京都中央区勝どき3丁目に開設されたのは、2018年なので、この街の歴史と比べるとほんのつい最近のこと。これから、地元に根付いた塾として、地域のお子さんの学びの場として、この街の歴史と文化の一部になることを目指していきたいと願っています。
<参考文献>
月島百年史月島地区築島百周年記念事業実行委員会『月島百年史』月島地区築島百周年記念事業実行委員会
中央区観光協会 編『歩いてわかる中央区ものしり百科』JTBコミュニケーションデザイン
東京都中央区 編『中央区三十年史. 上巻』東京都中央区
加藤 豊 著『閉じられたままの勝鬨橋―その造形と情景 加藤豊写真集』ムーンプレス
中央区教育委員会社会教育課 編『中央区の昔を語る 16』中央区教育委員会社会教育課