修明浅草橋教室のある台東区浅草橋近辺は、歴史の古い土地です。
地域の歴史を振りかえることは、日本史などの学習のヒントになるのはもちろん、時代の流れを感じとったり、物事の因果関係を感覚的に身につけるきっかけにもなります。浅草橋近辺には、どんな由来や歴史があるのかを振り返ってみます。
浅草橋の由来と歴史
「浅草橋」は文字通り、橋が由来の地名です。
実際の浅草橋は、浅草橋駅東口から200メートルほど南、神田川にかかっています。
橋から南側は、現在の地名では中央区の東日本橋などになります。
この橋は江戸時代に江戸から東北へ向かう奥州街道(現在の江戸通り)の通過点でした。
街道の起点である日本橋から見ると、神田川を超えた向こうには浅草観音(浅草寺)などがあり、江戸市民にとって交通上の大事なポイントだったのです。
現在の浅草橋。現在でも非常に交通量が多いポイントです。
また幕府にとっても、神田川と隅田川が合流するこの場所は、江戸城防衛の重要な場所でもありました。そのため、幕府は防衛の重要地点に城門を設けて通行を監視していました。
そうした監視所のことを「見附」と呼びます。浅草橋にも1636年(寛永13年)、「浅草見附」が設置されました。
現在の浅草橋は、もちろん江戸時代以降、何度か作り直されたものです。
明治になって浅草見附が廃止されると、城門の石垣を崩した石材で浅草橋はアーチ橋に作り直されました。さらに、1882年(明治15年)には鉄橋になりました。
その後も、交通量の増加や関東大震災で受けた損壊に応じて新しい橋がかけられてきました。
現在の浅草橋は、1930年(昭和5年)に完成したものです。
橋を南から北側へ渡った左側に「浅草見附跡」の石碑が残されています。
江戸通り沿いの神田川北側の地域が、1934年(昭和9年)に整理統合されて「浅草橋」という町名が誕生しました。
浅草橋にある「浅草見附跡」石碑。かつてここが江戸防衛の要所であった証です。
柳橋の由来と歴史
神田川にかかる浅草橋に立ち、そこから東へ、隅田川側のほうへ向くと、もう一つ橋があるのが見えます。
それが「柳橋」です。
ここの橋は、残っている記録によると1698年(元禄11年)にかけられ、神田川が隅田川へ流れ出る最も下流に渡された橋ということで、当時は「川口出口橋」と呼ばれていたそうです。
「柳橋」と呼ばれるようになった由来には、諸説あります。
「橋のほとりに柳が立っていた」「近くにあった幕府の矢の倉庫、“矢之城(やのぎ)”が訛った」「神田川の堤防、柳原堤にちなんだ」「近くの薬研堀にかかっていた別の“柳橋”があったのがいつのまにかこちらの橋の呼び名になった」などの謂れがありますが、ずばりこれといった決まった定説はないようです。
ちなみに薬研堀とは、現在の東日本橋1、2丁目の境あたりにあった堀で、隅田川につながっていた場所は今は中央区立日本橋中学校のあたりになります。
柳橋は、江戸時代から隅田川の舟遊びの拠点となっていました。
現在も柳橋のたもとには船宿が並んでいて、屋形船が何艘も泊まっています。
江戸から明治にかけて、新橋とならんで花柳街としても知られ、政財界人や文化人が集まる街でした。
第二次世界大戦後、徐々に衰退していき、現在は料亭などはほぼなくなり、マンションやオフィスビルが立ち並んでいます。
現在の柳橋は、1929年(昭和4年)に竣工したものです。両側の欄干には、色とりどりの石が嵌め込まれたかんざしを象ったレリーフがあしらわれていて、柳橋が華やかだったころの名残をとどめています。
鉄製のアーチが特徴的な現在の柳橋。
料亭「亀清楼」があった柳橋のたもと。伊藤博文や平山郁夫が通ったことや、横綱審議委員会が行われてきたことで知られるお店でしたが、現在は休業。
欄干にあしらわれたかんざしのレリーフ。浅草橋は装飾品製造の街でもあります。
鳥越の由来と歴史
浅草橋の北側には「鳥越」という地名があります。
鳥越は、歴史的には浅草橋より古くからある呼び名で、江戸時代以前からこの付近一帯は「鳥越村」と呼ばれていました。その名前の由来は「鳥越神社」にあります。
この土地には7世紀からもともと白鳥明神として日本武尊を祭った社がありました。前九年の役(1051~1062年)の際、源頼義・義家父子が奥州安倍氏の平定へ向かう途中に、白い鳥が水の上を渡る様子を見てどこか浅瀬を知り、そのおかげで父子は軍勢を簡単に渡すことができました。このことをきっかけに、ここの社が「鳥越神社」と呼ばれるようになったと言い伝えられています。
鳥越神社は現在の番地では台東区鳥越2丁目にあり、どんと焼やお化け神輿、水上祭などさまざまな神事を行っていて、地元に親しまれ続けています。
651年に創立されたとされる鳥越神社。この土地の歴史の深さを感じられる場所です。
蔵前の由来と歴史
「蔵前」は、柳橋の北側のエリアの地名です。
その由来は文字通り、この付近に蔵が建っていたことにあります。
何の蔵かというと、江戸時代に天領から運ばれてきた米を貯蔵するための幕府直轄の「御米蔵(おこめぐら)」です。
1620年、それ以前は現在の日比谷(和田倉)などにあった御米蔵が隅田川沿いに移転されました。
建造にあたっては鳥越神社の丘を切り崩した土砂で隅田川を埋め立て、その上に67棟もの蔵が建てられました。現在の浅草中学校や蔵前工業高校、蔵前警察署付近の一帯です。
御米蔵の西側の地域は、江戸時代中期以降、「蔵前」と呼ばれるようになりました。蔵前は物流だけでなく、米の取引などの商業の場としても栄えました。
この御米蔵は明治維新以降も「政府御蔵」として使われていましたが、1923年の関東大震災で壊滅してしまいました。
現在は「浅草御蔵跡」の石碑が蔵前橋のたもとに残されています。
浅草橋に人形店が多い理由
地名のお話から変わりますが、浅草橋の周辺には人形店が多くあります。それはなぜなのでしょうか。
さまざまな説がありますが、理由の1つは江戸の町民文化です。
江戸時代になり平和な時代が続いたおかげで、人々が余暇を楽しむ文化が開花しました。
桃の節句、端午の節句を祝う習慣が町民に広まり、日本橋などで雛市や人形市が開かれ、大いに賑わうようになりました。
また寺社の参道に参拝客を相手にする商店が立ち並び、土産物としても玩具人形の需要が高まったため、浅草近隣に人形を扱う店がいくつも創業されたのです。
需要の高まりに加え、もう1つの人形店の多さの理由と考えられるのは物流です。
浅草橋付近は神田川と隅田川に接し、船による輸送に便利な土地でした。
なので、製造のためのさまざまな材料を仕入れやすく、また出来上がった製品を出荷するのにも便利だったのです。
そのため、江戸時代にこの一帯ではさまざまな製造業や卸売業が発展しました。
時代は変わり、物流の中心は陸運になりましたが、現在も浅草橋には人形をはじめ、玩具や花火、文具、装飾品、革製品などの問屋街があり、社屋や店舗として残っています。
浅草橋駅近辺には、玩具、アクセサリーなどのさまざまな問屋が現在も軒を並べています。
浅草橋にあった医大のさきがけ
問屋街とはまた違った一面として、浅草橋には昔から学びの場があったということをご存じでしょうか。
この土地には、かつて「医学館」または「躋寿館(せいじゅかん)」と呼ばれる、今で言う医科大学にあたる学校があったのです。
もともとは神田にあり、医者を養成する私設の塾だった医学館ですが、のちに幕府公認の学校となりました。1806年に大火事で焼失し、現在の浅草橋4丁目16付近に移転されました。
医学館は、明治時代になるまでは唯一の公立医学校として日本の医学の発展に貢献しました。
医学館があった場所は現在(2021年10月)、ビルの建築中で、台東区教育委員会が設置していた案内板も今はありません。歴史が深い一方で変化も大きいのがこのエリアの特徴です。
修明学園の歴史
このように、浅草橋周辺は長い歴史のある土地です。
修明学園が東京都台東区柳橋に開設されたのは、1967年(昭和42年)10月です。
周囲のさまざまな史跡と比べるのもおこがましい、まだまだ“ひよっこ”ですが、おかげさまで50年以上に渡ってこの土地で学習塾を続けてこられました。
それでも数十年間も塾を営んでいると、かつての生徒がお父さんお母さんになり、そのお子さんが修明学園に通うこともしばしばあったりします。
これからも歴史ある土地の重みと面白さを感じながら、地元に根付いた塾として地域のお子さんの学びの場であり続けたいと願っております。
参考文献
「旧町名下町散歩 改訂版」(旧町名下町散歩委員会 編)/「上野・浅草・隅田川歴史散歩」(台東区役所文化産業観光部 にぎわい計画課 編)/「史跡をたずねて 下谷・浅草 新版」(台東区役所総務部広報課 編)/「東京江戸案内:歴史散策 年中行事と地名篇 巻の5」(桜井正信 編)